2009年08月28日
こころの自立とは
以前に、“自立”についてお話しました。
身体が成長して、はいはいしたり、歩いたり、ヒトの赤ちゃんはいろんなことができるようになってきます。
さて、“こころの自立”とは、どのようなことでしょうか?
自分に自信がある、自分を信頼している、自分が好き・・・だから自己決定できる。そういう自分のこころの状態だと思います。
親の気持ちが安定していると、家庭の雰囲気もゆったりと落ち着いたものになります。そういうとき、子供も安心します。乳幼児期の子どもにとって、家庭は人生で一番最初に体験する小さな社会です。やがて、社会へ旅立つための準備をするのが、家庭といえましょう。社会に出て自分はやっていくぞという自信を育むには、家庭で何が必要なのでしょうか?
赤ちゃんはさまざまな欲求を、「泣く」という手段で訴えます。
●空腹・のどの渇き・排せつの不快・体温調節などの生理的欲求
●誰かと一緒にいたい・コミュニケーションしたい・気持ちを交わしたいという、人との関係性を求める欲求
これらの赤ちゃんの欲求に対して、ある程度、応じてあげることを繰り返すと、そのことは赤ちゃんにとって、自分の欲求が伝わり受け入れてもらえた、欲求に合った対応をしてもらえたという体験になります。そして「この人(親)は信頼できるんだな」という基本的信頼感が育ちます。
基本的信頼感のある親は、子どもにとって「安心の基地」なのです。子どもは、親という「安心の基地」から、外の世界へ冒険に乗り出します。ちょっと不安になったり、疲れたりしたら、また、親という「安心の基地」にいつでも戻りたいのです。ですから、親がそこにいるということが大切です。子育てとは、こうした子どもの日常の繰り返しをごく普通に子どもに体験させることだといえます。
家庭で育まれた親や養育者への基本的信頼感や、安心の基地が、家庭から近所へ、さらには社会へと広がり、「この世の中はだいたい信用できそうだな、何とかやっていけそうだな」という自信を子どもに育むのです。
(広田幸子2008.12.20うみかぜだより創刊0号「ゆったり子育てしよう」より抜粋)
まず自分のさまざまな欲求を親や養育者に受け止めてもらい満たしてもらう、つまり愛してもらうことで、「安心の基地」を築き、そこをよりどころにして、冒険したり、戻ったりしながら、自信を持つようになってくる。自己決定できるようになる。“こころの自立”が育ってくるのですね。
身体が成長して、はいはいしたり、歩いたり、ヒトの赤ちゃんはいろんなことができるようになってきます。
さて、“こころの自立”とは、どのようなことでしょうか?
自分に自信がある、自分を信頼している、自分が好き・・・だから自己決定できる。そういう自分のこころの状態だと思います。
親の気持ちが安定していると、家庭の雰囲気もゆったりと落ち着いたものになります。そういうとき、子供も安心します。乳幼児期の子どもにとって、家庭は人生で一番最初に体験する小さな社会です。やがて、社会へ旅立つための準備をするのが、家庭といえましょう。社会に出て自分はやっていくぞという自信を育むには、家庭で何が必要なのでしょうか?
赤ちゃんはさまざまな欲求を、「泣く」という手段で訴えます。
●空腹・のどの渇き・排せつの不快・体温調節などの生理的欲求
●誰かと一緒にいたい・コミュニケーションしたい・気持ちを交わしたいという、人との関係性を求める欲求
これらの赤ちゃんの欲求に対して、ある程度、応じてあげることを繰り返すと、そのことは赤ちゃんにとって、自分の欲求が伝わり受け入れてもらえた、欲求に合った対応をしてもらえたという体験になります。そして「この人(親)は信頼できるんだな」という基本的信頼感が育ちます。
基本的信頼感のある親は、子どもにとって「安心の基地」なのです。子どもは、親という「安心の基地」から、外の世界へ冒険に乗り出します。ちょっと不安になったり、疲れたりしたら、また、親という「安心の基地」にいつでも戻りたいのです。ですから、親がそこにいるということが大切です。子育てとは、こうした子どもの日常の繰り返しをごく普通に子どもに体験させることだといえます。
家庭で育まれた親や養育者への基本的信頼感や、安心の基地が、家庭から近所へ、さらには社会へと広がり、「この世の中はだいたい信用できそうだな、何とかやっていけそうだな」という自信を子どもに育むのです。
(広田幸子2008.12.20うみかぜだより創刊0号「ゆったり子育てしよう」より抜粋)
まず自分のさまざまな欲求を親や養育者に受け止めてもらい満たしてもらう、つまり愛してもらうことで、「安心の基地」を築き、そこをよりどころにして、冒険したり、戻ったりしながら、自信を持つようになってくる。自己決定できるようになる。“こころの自立”が育ってくるのですね。

2009年07月05日
自立とは
「自立」
読んで字の如く、“自ら立つ”と書きます。
寝てばかりだった乳児が、ごろごろと寝がえりをうつようになり、うつぶせになって顔を上げれるようになり、ずり這いからハイハイするようになり、高這い、つかまり立ち、そして自ら立てるようになる。
この姿勢の変化にしたがって、視野がどんどん変化しています。天井しか見えなかったのが、左右が見えるようになり、前方が見えるようになり、それから少しづつ高い位置にあるものが視野に入ります。そして自ら立ち上がったとき、ぐんと視野は高く、もちろん左右前方後方も見まわせるようになったことでしょう。
その子をいつも見守っている親はその子の視野に合わせて、その子が親をいつでも自分の視野にとらえられるように心がけています。その子が安心できるように、その子を愛していることを伝えるために、その子がうれしい時、困ったときにすぐ応答できるように。
成長につれて、体(姿勢)の自立から心の自立へ向かいます。
“心の自立”については次回お話しますね。みなさんもよかったら「自立」ってなんだろう?って考えてみてください。
ご意見お待ちしています。
読んで字の如く、“自ら立つ”と書きます。
寝てばかりだった乳児が、ごろごろと寝がえりをうつようになり、うつぶせになって顔を上げれるようになり、ずり這いからハイハイするようになり、高這い、つかまり立ち、そして自ら立てるようになる。
この姿勢の変化にしたがって、視野がどんどん変化しています。天井しか見えなかったのが、左右が見えるようになり、前方が見えるようになり、それから少しづつ高い位置にあるものが視野に入ります。そして自ら立ち上がったとき、ぐんと視野は高く、もちろん左右前方後方も見まわせるようになったことでしょう。
その子をいつも見守っている親はその子の視野に合わせて、その子が親をいつでも自分の視野にとらえられるように心がけています。その子が安心できるように、その子を愛していることを伝えるために、その子がうれしい時、困ったときにすぐ応答できるように。
成長につれて、体(姿勢)の自立から心の自立へ向かいます。
“心の自立”については次回お話しますね。みなさんもよかったら「自立」ってなんだろう?って考えてみてください。
ご意見お待ちしています。

2008年09月27日
“座布団”が教えてくれたこと
先日、娘が下宿に座布団がほしいといったことをきっかけに、何となく、使わなくなったテーブルクロスやクッション用の綿、少し黄ばんで使えない布団カバーなどを引っ張り出した。
それらで、ソファのための、長~い“座布団”を作り始めてしまう。
チクチクと手縫いで、夢中でやり始めた。ぐっと集中できる時間が楽しい!
娘は「出来上がりが楽しみだなあ」とのたまう。おぉ、そうか、期待されると、拍車がかかり、お昼近くになってしまった。
「ごめん。もうちょっとかかりそうなんだけど、お昼ごはん、なんかつくってくれる?」「いいよ。」
よっしゃー、さらに張り切って、チクチクと作業をすすめ、とっても楽しい。好きなことに集中するのは実に楽しい!
その日の夜、長女から電話。「今日、なんか楽しいことあった?」
末娘いわく「うん、今日、お母さんが長い座布団作ったんだよ。それを見てるのが楽しかったな。」
それを小耳にはさんだ私は新鮮な驚きを感じた。
そうか、何かをしてあげるとか、何かを教えるとか、どこかへ連れて行ってあげるとか、そんなんじゃなくて、私自身がゆったりと時を過ごす姿を見ることが娘には楽しいのだ!と気づく。
(今日の気づき)親がゆったりとくつろいでいると、子どももゆったりとくつろげて楽しいのだな。
気づきをありがとうございます。
それらで、ソファのための、長~い“座布団”を作り始めてしまう。
チクチクと手縫いで、夢中でやり始めた。ぐっと集中できる時間が楽しい!
娘は「出来上がりが楽しみだなあ」とのたまう。おぉ、そうか、期待されると、拍車がかかり、お昼近くになってしまった。
「ごめん。もうちょっとかかりそうなんだけど、お昼ごはん、なんかつくってくれる?」「いいよ。」
よっしゃー、さらに張り切って、チクチクと作業をすすめ、とっても楽しい。好きなことに集中するのは実に楽しい!
その日の夜、長女から電話。「今日、なんか楽しいことあった?」
末娘いわく「うん、今日、お母さんが長い座布団作ったんだよ。それを見てるのが楽しかったな。」
それを小耳にはさんだ私は新鮮な驚きを感じた。
そうか、何かをしてあげるとか、何かを教えるとか、どこかへ連れて行ってあげるとか、そんなんじゃなくて、私自身がゆったりと時を過ごす姿を見ることが娘には楽しいのだ!と気づく。
(今日の気づき)親がゆったりとくつろいでいると、子どももゆったりとくつろげて楽しいのだな。
気づきをありがとうございます。

2008年09月19日
続・家庭の役割
前回、家庭の役割として「疲れを癒し、充電するところ」をあげました。
それだけでしょうか?少し考えてみたいと思います。
戦後、敗戦国となった日本は、それまで真実として教えられてきた多くのことを、「教科書に墨を塗る」ことで否定することになりました。当時の10代の子供たちは、そのことをどんな思いで受け止めたのでしょうか。おそらく、世の中の価値観というものは時代とともに変わるのだ、つまり、その時その時の価値観でしかないのだと衝撃の心で受け止めたことでしょう。今では、70代前後になっておられるおじいちゃん、おばあちゃん世代です。その方たちの子供たちは30代、40代ぐらいでしょうか。孫たちは思春期真っただ中というところでしょうか。
戦後、これまでの価値観が崩壊し、そこへアメリカからあたらしい価値観“民主主義”がもたらされました。 “自由”“平等”ももたらされました。それまでの上下関係がなくなって、まっ平らな人間関係となりました。日本人は自己主張をするようになり、すべてに平等を求めるようになりました。相手の意見を尊重するという立場から、親は子供の意見をよく聞くようになり、逆に価値観は時代とともに変わるからということで親の価値観をあえて子どもに伝えないようにもなりました。価値観の伝承が断たれたのです。
“民主主義・自由・平等”の価値観は私も素晴らしいと思いますし、正しいと思います。しかし、これだけでは足りないと思います。
世の中には、自分以外に他人がいます。また、まったく他人に頼らず自分一人で生きていくことはできません。自分が生きていくためには他人が必要であり、逆もしかりです。なぜかというと、一人前の人間に育つにはかかわってくれる多くの他人が必要であり、人間が一番幸せな時は自分が他人の幸せの役に立った時だからです。言葉やしぐさを覚えるのも周囲の自分以外の他人からですよね。人間は社会的な生き物なのです。
つまり、自分だけでなく、他人の“民主主義・自由・平等”も大切なのです。
そのためには、自分と他人を認識し、尊重し、自由には『責任』が伴うことを忘れてはならないと思います。他人の自由を侵さないという責任です。また、平等という意味は、みんな同じになることではなくて、同じチャンス(機会)を与えられているということだと思います。そこで努力する人は成功するでしょう。努力しない人は失敗するでしょう。成功する人と失敗する人といるのは平等でないということではないのです。民主主義も、ただ、相手の意見を尊重するだけでなく、自分の意見も尊重することです。そして話し合い、最終的にそれぞれが自己決定するのです。そしてその決定は、尊重されます。
日本人は、自分を律する、つまり自己コントロールする力を戦後、失ったのではないでしょうか。ものに溢れ、肥大化する欲望、自意識ばかりが強く、他人に意識を向けることをしなくなったのではないでしょうか。自分以外の物や人に多くの意識を向けていた日本人は、戦後60年を経てすっかり変わったしまったように思います。ものにも心を見出していた日本人、それは今世紀に求められている「自然との共生」を日本人が持っていたということではないでしょうか。感性豊かな日本人のDNAを目覚めさせたいと思います。
家庭で伝えることとして、次のことが大切だと私は考えます。
●大きくなるまでには身近な人、あるいは目には見えないけれど多くの他人がかかわってくれたこと。そのことに感謝して、一人前になったら、その方たちを含む社会のために他人様のために、自分の好きなこと・得意なことでお役に立つこと。
●自分と同じように他人にも意識を向けることができること
(相手の立場に立つ。自分がしてほしいと思うことを他人にしてあげる)
●自由とそれに伴う責任(自分以外の他人も自由であること。他人の自由を侵さない程度の自由を持っているということ)
●善悪の判断基準(社会的ルール)
(他人に心から喜んでもらうことをすることが“善”であり、他人を苦しめることをすることが“悪”である。それは自分自身に対しても言えると思う。)
●自分も他人も一人の人間として尊重すること、されること。(まず、相手の話を聞き、次に自分の話を聞いてもらうこと。それぞれ違う人間だから、相手の話を聞き、相手を理解しようと努め、自分の話を聞いてもらい、相手に自分を理解してもらうよう努める。そして語らい、共感できることは一緒に行動し、そうでないことは譲れることは譲り、譲れないことは独自に判断して行動する。)
これについて、ぜひ意見や感想をコメントしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
それだけでしょうか?少し考えてみたいと思います。
戦後、敗戦国となった日本は、それまで真実として教えられてきた多くのことを、「教科書に墨を塗る」ことで否定することになりました。当時の10代の子供たちは、そのことをどんな思いで受け止めたのでしょうか。おそらく、世の中の価値観というものは時代とともに変わるのだ、つまり、その時その時の価値観でしかないのだと衝撃の心で受け止めたことでしょう。今では、70代前後になっておられるおじいちゃん、おばあちゃん世代です。その方たちの子供たちは30代、40代ぐらいでしょうか。孫たちは思春期真っただ中というところでしょうか。
戦後、これまでの価値観が崩壊し、そこへアメリカからあたらしい価値観“民主主義”がもたらされました。 “自由”“平等”ももたらされました。それまでの上下関係がなくなって、まっ平らな人間関係となりました。日本人は自己主張をするようになり、すべてに平等を求めるようになりました。相手の意見を尊重するという立場から、親は子供の意見をよく聞くようになり、逆に価値観は時代とともに変わるからということで親の価値観をあえて子どもに伝えないようにもなりました。価値観の伝承が断たれたのです。
“民主主義・自由・平等”の価値観は私も素晴らしいと思いますし、正しいと思います。しかし、これだけでは足りないと思います。
世の中には、自分以外に他人がいます。また、まったく他人に頼らず自分一人で生きていくことはできません。自分が生きていくためには他人が必要であり、逆もしかりです。なぜかというと、一人前の人間に育つにはかかわってくれる多くの他人が必要であり、人間が一番幸せな時は自分が他人の幸せの役に立った時だからです。言葉やしぐさを覚えるのも周囲の自分以外の他人からですよね。人間は社会的な生き物なのです。
つまり、自分だけでなく、他人の“民主主義・自由・平等”も大切なのです。
そのためには、自分と他人を認識し、尊重し、自由には『責任』が伴うことを忘れてはならないと思います。他人の自由を侵さないという責任です。また、平等という意味は、みんな同じになることではなくて、同じチャンス(機会)を与えられているということだと思います。そこで努力する人は成功するでしょう。努力しない人は失敗するでしょう。成功する人と失敗する人といるのは平等でないということではないのです。民主主義も、ただ、相手の意見を尊重するだけでなく、自分の意見も尊重することです。そして話し合い、最終的にそれぞれが自己決定するのです。そしてその決定は、尊重されます。
日本人は、自分を律する、つまり自己コントロールする力を戦後、失ったのではないでしょうか。ものに溢れ、肥大化する欲望、自意識ばかりが強く、他人に意識を向けることをしなくなったのではないでしょうか。自分以外の物や人に多くの意識を向けていた日本人は、戦後60年を経てすっかり変わったしまったように思います。ものにも心を見出していた日本人、それは今世紀に求められている「自然との共生」を日本人が持っていたということではないでしょうか。感性豊かな日本人のDNAを目覚めさせたいと思います。
家庭で伝えることとして、次のことが大切だと私は考えます。
●大きくなるまでには身近な人、あるいは目には見えないけれど多くの他人がかかわってくれたこと。そのことに感謝して、一人前になったら、その方たちを含む社会のために他人様のために、自分の好きなこと・得意なことでお役に立つこと。
●自分と同じように他人にも意識を向けることができること
(相手の立場に立つ。自分がしてほしいと思うことを他人にしてあげる)
●自由とそれに伴う責任(自分以外の他人も自由であること。他人の自由を侵さない程度の自由を持っているということ)
●善悪の判断基準(社会的ルール)
(他人に心から喜んでもらうことをすることが“善”であり、他人を苦しめることをすることが“悪”である。それは自分自身に対しても言えると思う。)
●自分も他人も一人の人間として尊重すること、されること。(まず、相手の話を聞き、次に自分の話を聞いてもらうこと。それぞれ違う人間だから、相手の話を聞き、相手を理解しようと努め、自分の話を聞いてもらい、相手に自分を理解してもらうよう努める。そして語らい、共感できることは一緒に行動し、そうでないことは譲れることは譲り、譲れないことは独自に判断して行動する。)
これについて、ぜひ意見や感想をコメントしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。